まだ早い、もう遅い

 教育、「詰め込み教育」や「ゆとり教育」、子供の教育とは何か。戦後の教育を見ると、国を挙げての詰め込み教育を行い、その弊害が出始めると皆でゆとり教育に舵を切る。そして今、ゆとりの見直し。その目指しているところは人間の成長というよりも、受験、就職をにらんでいるように思える。

 そして、教育の体制づくりは子供の視線、立場に立っているように見えて、実は親や大人の願望や都合によっていることが多い。

 

 長年おかしいと思っていることだが、大人の多くは思い違いをしているのではないだろうか。意識しているか無意識かはわからないが、『子供は大人よりも様々な能力が低い』、『子供は皆同じだ』、『子供は大人が保護(?)してあげなければならない』、『早めに教育しないと手遅れになる』などなどを前提として現在の教育体制は作られているのではないか。しかしながら、本質的に考えるとなぜ(?)が沢山沸いてくる。

 

 例えば、制度名を何と言うのかわからないが、「小学校〇生が習う漢字」という制度がある。何とも不思議だ。子供は大人に比べて個人差が特に大きい、なぜなら、小学校一年生の場合、生まれ月で12か月の差がある。しかし、教える単位は一括りだ。人生で言えば小学校時代の1年は人生の8%~15%に値するに長さだ、そして最も成長の速度の速い時期、加えて人には早生もあれば晩生もある。それを一括りで「この漢字を覚えなさい。」という。この言葉を言い換えれば、「これ以上の漢字は覚えるな。」一方「この漢字を1年生のうちに覚えられなければ落第」ということと一緒だ。

 その結果、もっと覚えられる子供には成長する機会を与えず、ちょっと晩生の子供には焦りと劣等感を与える。漢字だけでは無い、あらゆるものが、大人の考える範囲でしか機会を与えず、範囲内に皆を収めようとしているのだ。

 

 人はいつ何時「これは面白い!」というものが見つかるかわからない。それが見つかった時に人は生きる目標を手に入れ、成長のスイッチが入る。

 だから「まだ早い!」ということは無い。子供に高校生、大学生、大人、著名人の知識、あらゆるスポーツや芸術に触れるチャンスを用意して良いのだ。そしてまた、「気づき」はいつ起こるかわからない、「もう遅い!」ということは無い。仲間より、「気づき」が遅れても何も問題はないのだ。

 

 子供の教育で最も大切なことは、社会の一員としての学習に加えて、自分がのめりこめるものに出会う機会、気づくチャンスをふんだんに与えることだ。

 大人が最もしてはいけないことは、子供をカテゴリー分けして考えること、自分の経験と知識の範疇に子供を閉じ込めることである。子供に対して親は教育者であってはいけない。成長支援者であるべきだと思う。

 江戸時代や明治、大正時代、子供であっても難解な漢字を使っていた子はいたではないか、そしてその時代に様々なジャンルで多くの天才が産まれた。それは、教育の本質的な考え方が近年の日本の教育制度のそれと大きく異なっていたのではなかろうか。

 

2016.5